2024年12月22日(日) 02:08 JST

あたいの家族

あれから一年経ちました

父が亡くなってからゆにばでびゅ〜♪の記事をアップするまでの約5ヶ月間の事で
公開するにはまだ早いけど書き留めておきたかったことを
コソッと雑記帳に認めていた。

改めてメインブログにアップしようと思って読み返してみると、あまり格好の良い内容ではない。

記事をほぼコピペするだけならアメブロのリンク貼るだけでいいか、とも考えたが
やはり私の本体であるこのブログにも残しておきたいことである。

ということで少し追記してアップすることにした。
一年前という全然リアルタイムでないお話である上に、おそらくコメントしづらい内容なので、読み逃げ全然オーライです。

あ、でも、素朴な疑問があればなんでもおっしゃってください。
たとえば
「 結局埋葬代いくらかかったん? 」
とか(笑)。
可能な限りおこたえいたします~。

内視鏡検査

夏に胃の内視鏡検査を受けた。
2年ほど前にピロリ菌で引っ掛かった時以来
2度目だ。

私が受けたのは全身麻酔で眠らされている間に
全ての検査を終わらせる、といった
ほとんど苦痛のない検査方法である。

検査台にのぼり、程なく検査前処置が始まる。

「はい、ぬいいとさぁん、麻酔する前に
 先に喉の筋肉を麻痺させるお薬いれますね~。」

あ、これや、前にもあったよな。
唯一この検査で苦痛を感じる瞬間である。

「唾が溜まってきてもかまわずダラダラと
 お口から流してくださいねぇ。」

確かに、呑もうと思っても呑み込めない。
お言葉に甘えてダラダラと流すことにした。
フッと、数ヵ月前の光景が過った。

「おやじさんもこんな気分だったんだろうか。」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

結果的には父が亡くなった日の前日となった
その日の昼下がりのこと。
面会に行った私の目に入ってきたのは
半起こしのベットに座らされた父が
首を傾け、口からよだれが流れ放題で
放心状態になっている光景だった。
一瞬死んでるのかと思い、慌てて声をかける。

「おとうちゃん、大丈夫?!
 あら~、すごいヨダレ!
 サ骨のとこに溜まって湖みたいになってるやん!
 すぐ拭くから待ってやぁ。」

タオルで拭うと口の中に溜まってる唾を
自分の舌で押し出して流し出してきた。
まるで待ち構えていたかのように。
一見放心状態に見えたのはそうではなく
意識だけはしっかりしてるのがすぐにわかった。
その後は何度か言葉のやりとりもあり
夜に姉と姪が面会したときも変わりはなく
それなりの会話はあったので
昼のヨダレダラダラのことも忘れかけるところだった。

「もう唾を呑み込む力がなかったんや」

そう気づいたのは明朝父が亡くなった時だった。

喉を麻痺させられて、唾ひとつ呑み込めない歯がゆさ
そしてなんともいえない違和感を感じながら
たった数分の短い間にいろんな思いを馳せながら
やがて内視鏡を突っ込むべく深い眠りについた。

無意識の思いやり

「 医師の診断をオオカミ少年の声に例えるのは
  余りにも可哀想だと思いますが (⌒‐⌒) 」

と、メール愛人からやんわりとご忠告を賜りました
ぬいいとさんです。

確かに。
現実的な、的確な、客観的な診断に対して
失礼な表現だったかもしれません。
悪意は無かったのですが。
私が著名人なら炎上モノだったかも?です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
父は今年に入って要介護5となってから
この5月に亡くなるまで、俯瞰でみると
徐々に下降線を辿っていった形なのであるが
その日々は決して希望のないなだらかな下り坂ではなく
希望の上り坂が訪れては、悟りの下り坂がやってくる
といった感じで日々が過ぎていったという状況だった。

越年できないかと思わせるくらいに衰弱していたのが
介護体制を整えたことによって
座った姿勢で
一杯のうどんを自力で食べられるまで回復したり。

「この調子ならお風呂が入れるようになるかも?」
と、ヘルパーさんと期待していたらまた徐々に
食欲がなくなったり。

入院してからも最初は意識なく
ただ眠っていただけだったのが
そのうちにプリンやヨーグルトを食べるまでになって
まだまだ頑張れるんじゃないかと期待したり。

下り坂を現実として受け入れつつも時折訪れる
小さな上り坂に一喜一憂することでまわりも救われた。
お世話になったケアマネさんによると
終末を迎えるまでに幾度か訪れるこの
「希望の小さな上り坂」
は、どんな方にもよくよくあることだそうだ。

生きたいという「欲望」
身内に心配をかけまいとする「愛」
死ぬ前にそんなことまで考えているのかどうかは
死んだことがないのでわからないけど。
ただ、もしそんなことまで考えていなかったとしても
「無意識の思いやり」みたいなものが本能的に
人間には備わっているのかもしれないと感じた。

父が亡くなったのは「火曜日」
父が築きあげたお店の定休日だった。
仕込んだ食材が無駄にならないように
日々の支払いが滞らないように
そんな無意識の思いやりがあったかもしれない。

オオカミ少年の声

ピリオドを打ってから思いのままに過ごしていたが
数ヶ月経った昨年末、父の心身の衰えが急に目立ち始めた。
食べない、通院不能、入浴サービスドタキャン、etc…

「ひょっとしたら年越せないかも」

一頃はそんな状態だったが、敏腕ケアマネさんの
的確な判断とブルドーザー的対応でみごと復活!
年明け数週間後にはおうどん一杯食べられるくらいまで
回復した。

「いつ、何があってもおかしくない状況」

医師からそう告げられて、かれこれ1年は経っただろうか。
何度ももうアカンのとちゃうか?という場面に遭遇して
そのたびに復活してきたオヤジさんである。

実姉 keshidamaさんと私にとって、医師の言葉が
オオカミ少年の声と化していた。

姦しい

とても近くにありながら行く機会のなかった病院に来た。
前に訪れたのは53年前だ。

病室に入ると実姉ピカリさんが来てた。
わちゃわちゃと、つもる話がどちらからともなく始まる。
ほどなくもうひとりの実姉 keshidama さんがやってくる。
わちゃわちゃわちゃと話の三重奏となる。

「 あ!この部屋こんなとこにトイレあるやん!
  ちょうど良かった、いっとこ♪」

「 ほな私もその次行くわ♪」

傍らにはオヤジさんが聞こえてるのか否かわからないが
眠ってる躰で時折右手をわちゃわちゃと動かしている。

「 ここ、私ら産まれた病院やんな?」

「 そやで、ぬいいとさんが産まれた時も私ら来たし。」

「 そやそや、あの頃は窓から味の素の看板見えてたよな。」

「 カルピスの看板もあったでぇ。」

「 そんなんあたし、覚えてないわ〜。」

「 そらアンタまだ産まれたばっかりやから当たり前や(笑) 」

あの頃とは違う、真新しくなった病院の窓から外を眺めると
でぇ〜ん!と日本一高いビル、ハルカスがそびえ立っている。

♪おんな三人寄〜ったら、かしましい〜とは愉快だね♪

これを唄えるのは昭和の関西人だけやろな。

こんな日が少しでも長く続きますように 。
160427_1825~01

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