病に倒れて学んだこと
- 2010年5月10日(月) 00:22 JST
- 投稿者: ぬいいとさん
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いつだったか、どこかの生命保険会社が
「 病に倒れて学んだこと 」
だかなんだかそんな感じのお題目で
一般からエッセイを募っていました。
「 私だったらこういう風に書くな~ 」
と頭の中でいろいろ妄想してみましたが
考えがまとまるにつれ
「 ん?コレって、主催者ウケしない内容かも?」
ってなくらい冷たいものになってしまって
ハタと筆が止まってしまいました。
その後、忙しさに紛れて形にすることなく
今日まできてしまいましたが…
「 Y太・出産ドラマ 」を書いているうちに
ちょっとまとめてみたくなったので
ここで、ひとりコンテスト。
………………………………………………
私にとっての
「病に倒れてまなんだこと」
それは
「 本当の辛さは所詮自分にしかわからない。
結局自分を守れるのは自分だ。
ただ、そのためには何もかも自分で背負い込むのではなく
人に助けを求め、甘える心をもつことも必要である。
そしてそのためにはちょっと図々しいかなぁと思うくらい
『 自分 』を発信することが必要だ。
何もせずに人にわかってもらえないことを嘆いたり
人から手をさしのべられるのを
どこかで待つ自分があるとすれば
それは甘え以外のなにものでもない。」
ということです。
物心ついたときから
成人して世の中に繰り出して社会生活を送るまで
いやもしかしたら育児をしていたごく最近まで、私には
「 自分の体の不調を訴えること 」
にどこか臆病なところがありました。
「 これぐらいはみんなしんどいんだから
私も我慢しなくちゃ 」
だとか
「 そんなことぐらいで医者にいくの?
っていわれそうだから市販薬や自然治癒力頼みで
もうちょっと自力で頑張ってみよう。」
だとか
仕事中に
「 もう、限界!立ってられないくらいしんどい!」
と頭抱えて座り込むくらい熱が出てるのに
「 熱があるようなので帰らせてください。」
の一言が言い出せず見かねた上司が帰宅を促すまで
心のどこかでそれを待っていたり。
「 医者行くヒマないけど、『休みます』とは言いづらい。」
と、健康診断やちょっとした体の不具合はスルーしたり。
根本には「 他人の目を必要以上に気にする自分 」
がありました。
自分というものがない、あかんたれですね。
また「 我慢することが美徳だ 」
みたいな意識がどこかにあったんでしょうね。
これは「 体育会系の弊害 」でしょうか?(笑)
いや、幼いときから根付いてたからそうともいえないな。
そんな私の意識を変えてくれたのが
「 入院生活 」と「 退院後のまわりの対応 」です。
出産で3度入院した以外は
二十歳に勤め先で階段踏み外して尾骨骨折し
1週間入院したあとすぐに職場復帰したときと
もうひとつは、3人目を妊娠中に卵巣膿腫を患い
お腹に我が子を宿したまま手術したとき。
座ってるだけでもけっこう疲れる状態なのに
それがわからず談話室で延々としゃべり続ける見舞い客。
労いや心配の言葉はあるけれど
身を制してまで術後の無理を止めてくれるひとは
そうそういないという現実。
ひきつる傷跡をガマンしながら拭き掃除してても
周りはわからない。
「 今、職場に迷惑かけられない 」
と無理を押して職場復帰しても
後々現れる後遺症のことまで会社や職場仲間は
面倒みてくれない。
「 これ以上症状をこじらせて
みんなに迷惑かけてはいけない 」
と、退院後のんびり生活していると
さもお気楽そうにと中傷される。
忙しさにかまけて医者に行かず
後々取り返しのつかない失敗をしでかしたり…。
誤解のないように言っておきたいことは、私は
「 所詮世の中なんて冷たいもの 」
と、周りを責めているのではないということです。
いくつか「冷たい」と思われる仕打ちをうけましたが
本当はそれは冷たいのではなくあたりまえな反応で
その多くは「 経験がないからわからない 」ので
反応しようがないんだ、ということに
後々になってきづきました。
もし、当時自分に
「 痛いからできない!」
とひとこと言える潔さだとか
「 こじれたら悪いから今のうちに休む!」
と誤解を生む前に根回しする知恵とか
「まわりのみんなに理解をもらって気持ちよく休みたい」
なんて自分が傷つくのを恐れることを捨て去る勇気だとか
「 上司はあんなこと言ってるけど
絶対オーバーワークになる!」
という適切な予測と行動ができる判断力とかが
自分に備わっていれば、そして遠慮なく言えていれば
周りも案外すんなり理解してくれたり
自分が思うほど難色示すことはなかったでしょう。
また私も不必要に周りを責めることはなかったと思います。
「 なにもいわず黙ってことをなす 」
ということも、とてもスマートでかっこいいことです。
ただ、時には図々しく「 自分発信すること 」も
生きていくうえでは必要であると思います。
今一度。
「 本当の辛さは所詮自分にしかわからない。
結局自分を守れるのは自分だ。
ただ、そのためには何もかも自分で背負い込むのではなく
人に助けを求め、甘える心をもつことも必要である。
そしてそのためにはちょっと図々しいかなぁと思うくらい
『 自分 』を発信することが必要だ。
何もせずに人にわかってもらえないことを嘆いたり
人から手をさしのべられるのをどこかで待つ自分があるとすれば
それは甘え以外のなにものでもない。」
コレは病に倒れたときにだけ言えることではなく
生きていくうえでいつも言えることだということに
いまさらながら気づく私です。
「 病に倒れて学んだこと 」
だかなんだかそんな感じのお題目で
一般からエッセイを募っていました。
「 私だったらこういう風に書くな~ 」
と頭の中でいろいろ妄想してみましたが
考えがまとまるにつれ
「 ん?コレって、主催者ウケしない内容かも?」
ってなくらい冷たいものになってしまって
ハタと筆が止まってしまいました。
その後、忙しさに紛れて形にすることなく
今日まできてしまいましたが…
「 Y太・出産ドラマ 」を書いているうちに
ちょっとまとめてみたくなったので
ここで、ひとりコンテスト。
………………………………………………
私にとっての
「病に倒れてまなんだこと」
それは
「 本当の辛さは所詮自分にしかわからない。
結局自分を守れるのは自分だ。
ただ、そのためには何もかも自分で背負い込むのではなく
人に助けを求め、甘える心をもつことも必要である。
そしてそのためにはちょっと図々しいかなぁと思うくらい
『 自分 』を発信することが必要だ。
何もせずに人にわかってもらえないことを嘆いたり
人から手をさしのべられるのを
どこかで待つ自分があるとすれば
それは甘え以外のなにものでもない。」
ということです。
物心ついたときから
成人して世の中に繰り出して社会生活を送るまで
いやもしかしたら育児をしていたごく最近まで、私には
「 自分の体の不調を訴えること 」
にどこか臆病なところがありました。
「 これぐらいはみんなしんどいんだから
私も我慢しなくちゃ 」
だとか
「 そんなことぐらいで医者にいくの?
っていわれそうだから市販薬や自然治癒力頼みで
もうちょっと自力で頑張ってみよう。」
だとか
仕事中に
「 もう、限界!立ってられないくらいしんどい!」
と頭抱えて座り込むくらい熱が出てるのに
「 熱があるようなので帰らせてください。」
の一言が言い出せず見かねた上司が帰宅を促すまで
心のどこかでそれを待っていたり。
「 医者行くヒマないけど、『休みます』とは言いづらい。」
と、健康診断やちょっとした体の不具合はスルーしたり。
根本には「 他人の目を必要以上に気にする自分 」
がありました。
自分というものがない、あかんたれですね。
また「 我慢することが美徳だ 」
みたいな意識がどこかにあったんでしょうね。
これは「 体育会系の弊害 」でしょうか?(笑)
いや、幼いときから根付いてたからそうともいえないな。
そんな私の意識を変えてくれたのが
「 入院生活 」と「 退院後のまわりの対応 」です。
出産で3度入院した以外は
二十歳に勤め先で階段踏み外して尾骨骨折し
1週間入院したあとすぐに職場復帰したときと
もうひとつは、3人目を妊娠中に卵巣膿腫を患い
お腹に我が子を宿したまま手術したとき。
座ってるだけでもけっこう疲れる状態なのに
それがわからず談話室で延々としゃべり続ける見舞い客。
労いや心配の言葉はあるけれど
身を制してまで術後の無理を止めてくれるひとは
そうそういないという現実。
ひきつる傷跡をガマンしながら拭き掃除してても
周りはわからない。
「 今、職場に迷惑かけられない 」
と無理を押して職場復帰しても
後々現れる後遺症のことまで会社や職場仲間は
面倒みてくれない。
「 これ以上症状をこじらせて
みんなに迷惑かけてはいけない 」
と、退院後のんびり生活していると
さもお気楽そうにと中傷される。
忙しさにかまけて医者に行かず
後々取り返しのつかない失敗をしでかしたり…。
誤解のないように言っておきたいことは、私は
「 所詮世の中なんて冷たいもの 」
と、周りを責めているのではないということです。
いくつか「冷たい」と思われる仕打ちをうけましたが
本当はそれは冷たいのではなくあたりまえな反応で
その多くは「 経験がないからわからない 」ので
反応しようがないんだ、ということに
後々になってきづきました。
もし、当時自分に
「 痛いからできない!」
とひとこと言える潔さだとか
「 こじれたら悪いから今のうちに休む!」
と誤解を生む前に根回しする知恵とか
「まわりのみんなに理解をもらって気持ちよく休みたい」
なんて自分が傷つくのを恐れることを捨て去る勇気だとか
「 上司はあんなこと言ってるけど
絶対オーバーワークになる!」
という適切な予測と行動ができる判断力とかが
自分に備わっていれば、そして遠慮なく言えていれば
周りも案外すんなり理解してくれたり
自分が思うほど難色示すことはなかったでしょう。
また私も不必要に周りを責めることはなかったと思います。
「 なにもいわず黙ってことをなす 」
ということも、とてもスマートでかっこいいことです。
ただ、時には図々しく「 自分発信すること 」も
生きていくうえでは必要であると思います。
今一度。
「 本当の辛さは所詮自分にしかわからない。
結局自分を守れるのは自分だ。
ただ、そのためには何もかも自分で背負い込むのではなく
人に助けを求め、甘える心をもつことも必要である。
そしてそのためにはちょっと図々しいかなぁと思うくらい
『 自分 』を発信することが必要だ。
何もせずに人にわかってもらえないことを嘆いたり
人から手をさしのべられるのをどこかで待つ自分があるとすれば
それは甘え以外のなにものでもない。」
コレは病に倒れたときにだけ言えることではなく
生きていくうえでいつも言えることだということに
いまさらながら気づく私です。